東京都と特別区の歴史を経て大阪都構想へ

現在大阪では11月1日の大阪都構想の住民投票に向けて、設計図となる協定書の作成が行われています。
都構想とは、大阪市が持っている広域権限を府に一元化し、同時に大阪市を廃止し基礎自治に特化した特別区を4つ設置するというものです。
2015年に行われた住民投票の際から現在に至るまで反対派の議員らから言われ続けている主張として、『特別区は半人前の自治体』や『特別区は村以下の自治体』というものがあります。
東京都の特別区からすると非常に失礼な話ですし、反対派の大阪市議らがこのような発言を続けていることにただただ残念な思いです。
そこで本コラムでは特別区の成り立ちや自治権拡充のために奔走してきた経緯を簡単に書かせて頂きたいと思います。

区の成り立ち

東京府庁、東京市庁

東京府庁、東京市庁

【出典】探検コム:大東京35区の誕生

1879年(明治11年)郡区町村編成法により日本に初めての統一的な地方自治制度が作られました。
三府(東京、京都、大阪)と五港(横浜、神戸、長崎、函館、新潟)などに自治体としての区が置かれ、東京府には15区そして大阪府には4区(東区・西区・北区・南区)が置かれました。
区が出来てから10年後の1889年(明治22)年、「市制特例」により東京市や大阪市が誕生しました。
当初は東京府知事および府書記官が東京市長を兼任し市役所も市職員もいない名ばかりの「市」という状況でしたが(大阪市も同様)、15区はそれぞれ単独で区長(官選制)と区会(公選制)があるという一般市とは一部違う変則的な市制でした。
1898年(明治31年)に「市制特例廃止」により東京市長や市役所が設置され(大阪市も同様)、区は市の下部組織として存続しました。
そして1932(昭和7)年10月に新たに20区を置き東京市は35区体制となり大東京市へと発展していきました。

東京都政の誕生

1943年(昭和18年)7月1日、東京都制という法律によって、東京府と東京市が廃止となり東京都が設置されます。
当時の東條英機内閣は、「帝都東京の国家的性格に適応した戦時体制をつくり、東京府と東京市の二重行政の弊害を排し、行政の一元化と効率化を図る」という目的で、新たに東京都という制度を発足させることを閣議決定しました。
ただし現在の東京都が広域的な普通地方公共団体であるのに対し、この時成立した東京都はそれまでの東京市と同じ基礎的自治団体でした。
東京都として東京府と東京市が一体化した背景には、戦時下で首都防衛のため国が強権的に集権化したというのが一般的な話となっています。
これに異論を唱えておられる早稲田大学の小原隆治教授によりますと、戦前の東京市会は利益誘導型の政治により汚職と腐敗を繰り返し、内務大臣から3回も解散を命じられたため、東京市不要論を支持する市民の世論が熟成され、それと連動するように運動が起こったそうです。
つまり東京都政の誕生には、戦時下における中央集権的な改革・統制ということだけではなく、汚職と腐敗を繰り返した東京市に対して市民側が東京市不要を求めたことが影響したのではないかということです。

特別区の誕生

戦後間もない1947年(昭和22年)3月15日、日本国憲法とともに地方自治法が制定され特別地方公共団体である特別区が誕生しました。
ちなみに特別区と呼ばれるのは「都の区は、これを特別区という」と定められたことに由来すると言われています。
地方自治法の制定に伴い、35区あった区は22区に整理統合されましたが、同年8月1日に板橋区から練馬区が分離して23区となりました。
特別区になったことでもう1つ大きく変わったことは、それまでの区長が官選だったのに対し、特別区では公選になったことです。
都に多くの事務権限が残ったままという問題はありましたが、これにより特別区は「市に準じる区」となりました。
東京の区は、この地方自治法施行以前は基礎的自治団体である東京市や東京都の下部組織でしたが、かといって単なる行政区ではなく各区には区会が設置され法人格をもった独特の存在として認められてきたことから、一般市と同じ基礎的な自治体としての出発を果たすことが出来たと考えられます。
ちなみに、この地方自治法施行の際に大阪市の「区」はなぜ特別区のような基礎的な自治体とならなかったのでしょうか?
大阪市の区は1943年(昭和18年)に戦時決戦体制整備のため大阪市東区等の法人格を持つ「区」および区会が半強制的に解散となり、1890年(明治23年)から53年におよぶ区会の歴史に幕を閉じました。
そのためこの地方自治法が施行された時、大阪市の区には区会も法人格も無かったので、特別区のような基礎的な自治体とはならず大阪市の内部団体である行政区になったという話もあります。

区長公選制の廃止と復活

上記の地方自治法が制定されたわずか5年後の1952年(昭和27年)、東京都の特別区を大都市の内部的な特別地方公共団体とする地方自治法の改正が行われました。
この法改正により、都は基礎的地方公共団体に、特別区は区長公選が廃止され都の内部団体となり、特別区の自治権は大きく後退してしまいました。
そしてもともと都に多くの事務権限があったこともあいまって、特別区の自治権拡充運動が本格化していくことになります。
1962年(昭和37年)に東京区部の人口は1,000万人を超え大都市問題が激化したため、都は「市」の事務の重圧で行財政が麻痺し行き詰まってしまいます。
そこで、1965年(昭和40年)に福祉事務所の移管をはじめとする特別区への大幅な事務移譲が行われるなど、特別区への権限移譲が始まりました。
それでも戦後の民主改革直後の都区制度への復帰を求める特別区の声は強く、1971年(昭和46年)には区長公選条例を求める直接請求が行われるなど、自治権拡充の動きはますます活発化していきました。
このような住民運動の高まりのもと、国の第15次地方制度調査会では、「都知事の同意を得て区議会が区長を選任する制度」では区長候補者の一本化が難航すること等から、「区長の公選制度の採用」を答申することとなり、1975年(昭和50年)に施行された地方自治法改正により、ようやく区長公選が復活し、併せて人事権の移譲・事務権能限定の廃止等が実現しました。
この改正で特別区は原則「市並み」の自治体となることが出来ましたが、特別区の位置付けは従来の延長線上で都の内部団体であり、都が基礎的な地方公共団体であることは変更されませんでした。
そのため特別区は基礎的な地方公共団体になることを求めて、さらなる自治権拡充運動を展開することになります。

特別区の悲願

特別区自治権拡充大会

特別区自治権拡充大会

【出典】特別区の基礎を知ろう

そこからさらに議論を積み重ねた結果、1986年(昭和61年)に都と区は一致して都区制度改革について取り組むということが合意され、1990年(平成2年)に第22次地方制度調査会から「都区制度の改革に関する答申」が示されました。
この答申では特別区を基礎的な公共団体とすることや、都から区への権限移譲が記されており、2000年(平成12年)に施行された地方自治法改正により、都区制度改革は大きな進展をみせることとなりました。
具体的な改正点は、

  1. 特別区を「基礎的な地方公共団体」の位置づけ(条文で明確化)
  2. 特別区の自主性・自立性の強化(内部団体的な特例の廃止)
  3. 事務の移譲(清掃事業、教育委員会の事務、保健所設置市の都留保事務など)

この地方自治法改正により、住民に身近な行政で移譲が可能なものはできるだけ特別区に移譲すること、大都市の要請に配慮しつつ特別区の自主性・自律性を強化する方向で見直すという考え方が示されました。
この「平成 12 年改革」は、1952年(昭和27年)以来の「特別区の悲願」となっていた「戦後民主改革直後の都区制度への復帰であると同時に、約半世紀にわたる復権運動の到達点」といえる改革であり、これにより都の内部団体から基礎的な地方公共団体となりました。

都区財政調整制度の変遷

都区財政調整制度はこれまで政令に委ねられていましたが、2000年(平成12年)に施行された地方自治法改正による都区制度改革によって、地方交付税と並ぶ法律上の財源保障制度として特別区の財政自主権を支えるものとなりました。
1999年(平成11年)以前は都が56%で特別区が44%、2000年(平成12年)から2006年(平成18年)は都が48%特別区が52%、2007年(平成19年)以降は都が45%で特別区55%となっています。
この都区財政調整制度の配分割合は都と区の事務事業の配分に応じて定められていますが、都が処理している事務のうち基礎自治体の財源で処理すべき範囲が明確にされていないため、都と特別区の間での役割分担の明確化とそれに応じた財源配分の整理が以前から課題とされています。
東京の都区制度が未完と言われているのはこのためと思われます。

所感として

上に書かせて頂いたように、現在の都区制度は決して一足飛びに出来たわけではなく、約半世紀にわたって悲願としてきた基礎的な地方公共団体を目指し尽力してきた方々によって築き上げてこられた制度です。
この特別区の歴史を踏まえた上で、「特別区は半人前の自治体」や「特別区は村以下の自治体」などと揶揄する大阪都構想反対派の大阪市の議員らを皆さんはどう思われるでしょうか?
確かにいまだ未完と言われている東京の都区制度ではありますが、大阪都構想は「大阪市が政令指定都市として積み上げてきた実績と課題」と「東京の都区制度の歴史と課題」の双方を十分に学び考慮した上で設計されています。
たとえば大阪府と大阪市の事務を洗い出して大阪府と特別区の役割分担を明確化した上で、より住民に身近な行政が出来るように特別区には中核市並みの権限が付与されています。
また財政調整制度でも大きな違いがあり、東京都と特別区の配分が45対55となっているのに対して、大阪都構想では大阪府と特別区の配分が21対79と住民に身近な行政を行う特別区に重点を置いていることがわかると思います。
前回の大阪都構想の住民投票の際、都構想に賛成する東京の特別区長からは大阪都構想は我々の望む権限が盛り込まれている。」「実現すれば東京が大阪から学ぶときが来る」などと評価されており、今年11月1日予定の住民投票で可決となれば東京の都区制度に影響を与えるだけでなく、妥協の産物として誕生し都区制度と同じく未完となっている政令指定都市制度(大都市制度)に一石を投じることにもなると思います。
戦時下において自治権を失い行政区となった大阪市の「区」が、合区と大阪市からの分権によって「特別区」として基礎的な地方公共団体となることが出来るのか。
11月1日に可決となれば大阪府内や周辺の県と市にも影響を与えるだけでなく、歴史的な出来事となるのは間違いありません。

(文責:向日葵@尼崎