大阪都構想と言えば、まずは橋下徹さんのことを思い出す人が多いのではないでしょうか?でも残念ながら、大阪都構想を最初に言い出したのは橋下さんではありません。
橋下さんは2008年に大阪府知事に初当選したときは大阪都構想は掲げていませんでした。当選当初は平松大阪市長(当時)との協調路線をめざして、さまざまな府市協力を進めました。2009年12月にスタートした御堂筋イルミネーションは、府市協力なくしては絶対に実現しなかったものです。しかしそんな協調路線も次第にうまくいかなくなり紆余曲折を経て2010年3月に地域政党「大阪維新の会」を設立し、ここではじめて大阪都構想を目指すことが掲げられました。
確かに太田房江さんも2000年の知事初当選のころ「大阪都構想」を掲げていましたね。
でも残念ながら、彼女も初めて大阪都構想を掲げた人ではありません。
太田房江さんが知事時代の大阪市長は磯村隆文さんでした。磯村大阪市長(当時)は、大阪府から独立した「スーパー指定都市」「特別市」を主張して対立しました。太田房江さんは任期中の2004年にもう一度「府に代わる広域自治体として大阪新都機構を設け、政令市の枠組みは残したまま住民自治の拡充を図る」と形を変えて新しい大都市制度案を提案しましたが、話はまったく進展することなく消滅してしまいました。
左藤義詮元大阪府知事
【出典】毎日新聞
よくそんな人ご存知ですね(;´∀`)
確かにwikiには、【1967年(昭和42年)10月に左藤義詮大阪府知事(当時)が「大阪府を20区にする、現在の大阪の22区を9区にする、衛星都市を11区にして20区にする、そして区長は公選にする。そして20区になりました場合には、名称は大阪都となるかどうかわかりませんが、そこから選出したところの議員をもって、区選出の議員をもって区政の参議会というものをつくる」する構想を持っていたことについて新聞で報道された】と書いてありますね。
でも残念ながら、左藤さんも大阪都構想を言い出した人ではありませんでした。
ちなみにこの左藤さんは、現在大阪2区選出の自民党の左藤章衆議院議員の奥様のお爺さんだそうです。(左藤さんが婿養子だったとは筆者もびっくり!)
この時の大阪市長は中馬馨さんでした。中馬さんと言えば大阪市役所を公務員天国にした人として有名(笑)ですが、彼は、政令市・大阪市の拡張を主張して「最終的には現在の府下全部を大阪市域にするのが好ましい」という考えで反発していました。
この時の大阪市、結構すごい対案を持っていたんですね。大阪市が府下全部を大阪市域にしてのみ込むというのは、プロセスが逆なだけで大阪都構想と最終的な形は同じのような気がします。要は府がやるか市がやるかという問題です。そんなお二人の時代に大阪万国博覧会が開催されています。この万博の裏側で府市合わせの弊害があちこちで生まれていたことを知ったのは最近になってのことでした。
実は「大阪都構想」が最初に議論されたのは、1953年(昭和28年)12月、赤間文三府知事(当時)の時でした。
戦争で負けた日本は終戦直後から1952年のポツダム宣言執行までGHQの占領下だったので、1953年はGHQから日本が統治権限を取り戻した直後ということになりますね。
赤間さんは戦後の新しい選挙法のもと、初めて市民に直接選挙で選ばれた知事
さんで1947年〜1959年まで3期12年知事を務めました。この赤間さんが直接提案したかどうか定かではありませんが、1953年12月の大阪府議会で「大阪産業都建設に関する決議」が行われ、大阪府・市を廃止して大阪都を設置し、市内に都市区を設置するとされました。
そんな嘘みたいな話が、本当にあったとは驚きです。でも大阪市側は戦前からずっと「特別市」に移行することを目指していました。だからそれを阻止しようと急いで決議したのか府議会だけの決議に終わり、実際に大阪都が施行されることはありませんでした。また大阪市の目指す特別市構想も終戦直後の様々な事情が重なって実現できませんでした。そうして大阪市と大阪府のどちらも戦後の新しい時代に合わせて大都市制度の形を提案しながらも折り合うことができず、とうとうその折衷案として1956年に大阪市は国から政令指定都市制度が施行されました。
まるで今の大阪都構想と同じような「府市合わせ(不幸せ)」が70年前にも起こっていたわけです。
しかしこの府市合わせ、実はもっと昔からあった問題だったのです。
大阪都構想の話をするときに必ず出てくる「府市合わせ(不幸せ)」ですが、これは大阪府と大阪市の二元行政、二重行政の問題を揶揄した言葉で、府と市の権限が重なっていることで、お互いに調整がうまくいかずに無駄が多くなってしまう状態を意味しています。
この府市合わせはいつから問題認識されていたのでしょう?
大阪の歴史をたどってみると、この問題は大阪市が発足した130年前から存在していたと思われます。
江戸時代の大阪の街並み
大阪は江戸時代から「天下の台所」と呼ばれ商都として発展してきました。そのころから大阪の人々の自立心は非常に高かったといわれていて、町役人を選挙で選ぶなど武士や官に頼らない独特の住民自治が行われてきました。
時は明治に移り、藩籍奉還、廃藩置県・・・大阪でもついに1889年(明治22年)に大阪市が誕生しました。
この時、大阪市役所も大阪市長も存在しなかったことを、皆さんはご存知でしょうか?
庁舎工事が間に合わなかったとか選挙が遅れたとかそういう話ではなく、制度として設置されなかったのです。当時の市町村長は公選ではなく議会や議員のみの選挙で選ばれていましたが、東京と京都と大阪だけは特例で府知事と市長が兼任で、市役所業務も府庁舎で執り行われたのです。これは明治政府が東京・京都・大阪を「三府」と位置付けて重要拠点として他県と区別したからです。要するに国の出先機関として府が大都市を直轄していたわけですね。これまでお上に頼らず自立した自治を行ってきた自負がある大阪市民が、この体制に不満を持ったのは想像に難くありません。当然、自治を求める声が大きくなり、9年後の1898年に晴れて初代の大阪市長が選任されました。
筆者はここからが「大阪府市合わせ」の始まりだったと認識しています。
大阪市は商都としての基盤を生かして、めまぐるしい成長を遂げていきます。
二度の市域拡張の間に関東大震災の被災者が大勢大阪に移住し、人口が全国トップの都市になり、1940年には最高350万人に達しました。今の大阪市(274万人)より多いですね。当時の大阪は商工業も盛んに行われ「東洋のマンチェスター」と称されました。日本初の市営地下鉄が開通し、御堂筋の拡幅工事も完成。現存する中之島中央公会堂や大阪ガスビルなどは当時の大阪の栄華を現代に伝える貴重な建物です。
この時代の大阪は「大大阪」と呼ばれていて、大阪が歴史的に見て一番輝いていた時代でした。しかしそんな栄華を極めた大阪市も、第二次世界大戦の波にのみ込まれていきます。終戦間際に日本全土が空襲で焼かれ、大阪市街地もほとんどが焼け野原となりました。
空襲後の大阪市街
【出典】大阪大空襲|wikipedia
昭和20年代に作成された特別市制運動推進のためのポスター
【出典】報道発表資料 平成28年度大阪市公文書館秋の展示「政令指定都市60年 公文書にみる大阪市と大都市制度」を開催します|大阪市
この時まで大阪市は一貫して民主的な運営と自立を標榜し、国からの人材を一切受け入れてきませんでした。そして大阪市が経済成長を遂げるにしたがって二度の市域拡大を実施しましたが市外地からの勤務者も増え続けていて、大都市としての形の在り方が問われるようになっていました。そんな中で大阪市は大阪府から分離し、すべての権限や事務を処理できる「特別市」への移行を望んでいたようです。終戦後にGHQの指導で新しい法整備がなされ地方自治法に「特別市」の規定が盛り込まれたのも、水面下で大阪市などが国へ働き掛けた結果でした。特別市制度は五大都市(大阪市、京都市、名古屋市、横浜市、神戸市)を候補としていました。これをきっかけに大阪市内では「特別市運動」が大々的に行われたそうです。
高橋修一「戦後占領期の大都市制度をめぐる運動と諸主体 ―1946〜47年の大阪特別市制運動を中心に―」(一橋大学期間リポジトリ HERMES-IR)には当時の大阪市側の特別市運動の様子が書かれていて、官(大阪市)主導で特別市移行への市民の関心を高めるキャンペーン活動のようなことが行われていたようです。
この時の大阪府側は、今後の都市の在り方をどうするかという問題の重要性は認識していたので賛成する府議も一定存在しました。しかし戦後の混乱期で食糧問題や港湾整備など大阪府も処理しないといけない問題が山積している中で、まあ今じゃないでしょ(ここは筆者の想像ですが)という対応だったようです。ただ全国的に見ると府県から大都市が独立した場合に、府県側に残る郡部が大都市から取り残されるという残存区域問題から、五大都市が推進派、関係府県が反対派となって激しく対立しました。そして水面下で攻防戦が繰り広げられ国やGHQもからんで、とうとう1947年12月に地方自治法が改正されて、府県全域で住民投票して賛成多数にならないと特別市になれない、と決まったのです。戦後の大阪市は人口が116万人まで激減していて、もし府全域で住民投票をすれば可決する見込みは少なく、また市民の関心も高まらず、大阪市が特別市に移行するための住民投票は結局実施されませんでした。そして1956年に地方自治法の「特別市」条項が削除され、替わりに今の政令指定都市制度が導入されました。
このように歴史を振り返ると、大阪では常に大都市としての在り方を模索していたことがうかがえます。江戸時代より住民の自立した自治を標榜し独自のまちづくりを進め、大阪が世界に名だたる大都市と成長していった過程は誇らしいものです。しかしながら、当時の大阪が「東洋のマンチェスター」と言われるほど経済や産業の成長を遂げたのは、当時の大阪市が事業運営者としての才覚があったのはもちろんですが、それ以上に大阪の人々の商才、常に新しいことに挑戦するチャレンジ精神、そして「やってみなはれ」という大阪という街の雰囲気が、大都市大阪を形作っていったのではないでしょうか。
大阪は今、過去に何度も繰り返された大都市制度の在り方についてもう一度見直そうとしています。都構想の議論はまだ足りないという方もいますが、それは歴史をご存じないからでしょう。議論は十分に、そして何度も繰り返しています。
うめきた2期のイメージ 南北公園を繋ぐ歩行者デッキ「ひらめきの道」
【出典】梅田経済新聞
大阪の財政が底まで落ちて街の雰囲気が暗く沈んでしまっていたときに、もう一度昔の輝かしい大阪を取り戻そうといって橋下徹さんが知事に立候補し、多くの大阪府民市民の期待が膨らみました。橋下さんは市との協調を呼びかけ、さまざまな働きかけをしましたが、結局大阪の輝きを取り戻すには大都市制度の在り方を変えなければいけないという結論に達し「大阪都構想」を再び議論の俎上に挙げました。新しいことにチャレンジしようとしても様々な規制があってうまくいかない、元気のない街には人が集まらず活気が生まれない、そんな大阪を打破したい!そんな思いが込められた「大阪都構想」なのです。だから今回の都構想は過去のそれとは少し意味が違うのではないかと筆者は感じています。
新しいビジネス誕生が期待される大阪・関西万博の会場イメージ(経済産業省提供)産経新聞
【出典】産経新聞
これまでの都構想はどちらかというと財政改革を軸としたもので、どうしても大阪市の税収で府を助けるイメージが強く大阪市民の抵抗感が強かったのですが、今回の都構想の理念は「大阪が大都市として経済発展するための新しい器づくり」という意味合いが強いものとなっています。それは都構想で広域一元化されると大阪市役所から職員が府に移管され、府の職員と一緒に新たに都市計画局が設置されるなどの協定書の計画からもうかがえます。もちろん財政改革も大きな柱の一つではありますが、それ以上に大事なことは「再び輝く大阪を!」という願いが詰まっているということです。もちろんほかの方法で大大阪時代が再び迎えられるならばそれでもよいと思いますが、今のところ他の方法は提案されていません。
どうか大阪市民の有権者の皆さまには、これからの大阪が再び輝きを取り戻すために大阪都構想が必要かどうかを見極めて投票していただければと思います。
大阪メトロ 夢洲駅のイメージ
【出典】ニコニコニュース
(文責 平山)